先の惑星

limelight2024 - 49

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この作品は、2020年から2022年にかけて撮影した二種類の写真シリーズを組み合わせたものです。
一つは主に2021年、コロナ禍真っ最中であった時期に当時自分の住んでいた京都市近郊の住宅街を歩きまわり、家と家先の鉢植えを撮影したシリーズ。
もう一つは2020年から2022年にかけて、自分が出かけた際に見かけた、地面に落ちたマスクを撮影したシリーズです。
この二つのシリーズは、撮影したのち、自身の環境の変化やコロナ禍のひとまずの収束を経て、作品としてまとめることのないまま眠っていました。

ところが時間が経ち2024年の今見返してみたとき、一見関連のなさそうに見えるこの二つのシリーズが、対になった一つの作品として浮かび上がってきました。
二つのシリーズの共通点は、人の気配は感じるけれど人が写っていないこと。
はじめ、私はこれをコミュニケーションに関する作品だと思っていました。
しかし制作を進める中で、コミュニケーションに関する作品であると同時に、人間のつよさとしなやかさ(そして自分の不安と硬さ)についての作品だと感じるようになりました。

 

私たちは、表面を通してしかコミュニケーションを取ることができません。
それは「表情」だったり「言葉」だったり、表出される何かです。
そしてそれらは一長一短で作られるものではなく、日々の暮らしのなかで、人の反応を見、学習し、己の中でアップデートを繰り返して徐々に構築されてきたものです。
それが今の自分(として人から見えているもの)になっていると感じます。

「顔」は、人の表面としてわかりやすい一例ではないでしょうか。
そのようにして構築してきた「顔」を覆い隠され、マスクがすっかり顔の一部のようになった数年間。
もしかすると私は怒っていたのかもしれません。これまで手間暇かけて作ってきた表面を隠させられることに対して。
だから落ちているマスクを見た時に「どうやって帰ったんだろう」と思う反面、どこか爽快だという気持ちも感じていました。

でも人はつよくて、「隠されるもの」だったはずのマスクすら「表面」「表現」に変えてゆきました。
はじめは真っ白の不織布マスクしかなかったのに、だんだんとカラーや素材の展開が増えていったように。

また、家にとって外観は顔だと感じます。
通行人もないとき・場所でも、家先の鉢植えは変わらず存在しています。

そして鉢植えがりっぱな家が一軒あると思うと、その近所には往々にして鉢植えが豊かな家がたくさんあります。
家先のしずかなコミュニケーション。そうしたものがもうずっと昔から行われているということ。

「きれい」「きれいじゃない」以上に、装飾しようという、表現しようというその気持ちに私は惹かれます。
対面でのコミュニケーションがむずかしかった数年間の、パネル越しの会話やリモートでのやりとり。
やりづらいなと思う反面、人に会わなくていいこと、その免罪符があることに自分はどこかでほっとしているような気もしました。

インターネットの一般化やメタバースの隆盛、コロナ禍を経て、これからの人間のコミュニケーションの形はますます変わってゆくでしょう。
そうなったとき、実際の家の表面である鉢植えは不要になってゆくのかもしれません。

 

人はつよいから、大丈夫だ。
コミュニケーションの方法やあり方が変わっても、きっと時代や環境にしなやかに対応してゆける力を備えている。
そう思う反面、でも私はどうだろうと一抹の不安が過ぎります。
ちゃんとそこに適応してゆけるだろうか。自分を相応のスピードでアップデートしてゆけるだろうか。

もうひとつのこの二つのシリーズの共通点は、「(未来に)取り残されたもの」ということです。
私は落ちたマスクや残された家先の鉢植えのように、いつか未来に取り残されてしまうという気がしてなりません。

 

先の惑星という作品名には、「この先の=未来の」惑星という意味と、「先の=以前の、過去の」惑星という二つの意味を込めました。
落ちたマスクのように忘れられ、誰にも見られない家先の鉢植えをいじっている未来の自分は、そう遠くないところにいるような気がしています。